宮本武蔵が伝えた「悟り」の極意
こんにちは、小野寺潤です。
前回の記事では
「火事場の馬鹿力」について見てきました。
今回はそれが必要な場面を
別の角度から見ていきましょう。
現代は決闘という言葉が死語になりつつありますが、
かつてはこの日本にも、命がけの勝負がありました。
宮本武蔵の名前ぐらいは
皆さん知っているでしょう。
吉川英治の小説を読まれた方も
おられると思います。
その武蔵の著に
「五輪書」というものがありますが、
現代にも通じる極意書となっており、
今もその人気は変わらないように思います。
さて、その武蔵の「五輪書」ですが、
見ようによっては階層性を取り入れた
デジタル兵法学にもなっています。
「地水火風空」の五輪・・
タイトルからして五階層*。
*五階層とは・・・
古神道である伯家神道では、体・情・魂・霊・神、といった5つの階層の考え方が基本にあります。
因みに「五輪書」の最後の締めに
書かれたのが「空の巻」です。
普通は「地の巻」から始めますが、順番を逆にして、
いきなり「空の巻」の冒頭部分を見てみましょう。
「二刀一流の兵法の道、空の巻として書顕はす事、
空といふ心は、物毎のなき所、しれざる事を空と見たつる也。
勿論空はなきなり。ある所をしりてなき所をしる、是則ち空也。」
興味があれば「空の巻」の全文をお読みいただければ
と思いますが、この出だしだけで十分でしょう。
「空の巻」は「悟り」の指南書ともいえる側面があり、
単純な文章の中に何ともいえない味わいがあります。
「ある所」とは「実」の世界であり、
「物事のなき所」は「虚」の世界と観ることができますね。
つまり、「実」の生まれる源が「虚」の世界であり、
それを「空」と見立てているわけです。
で、結びに「空は有善無悪、智は有也、
利は有也、道は有也、心は空也」と出てきます。
兵法の道は、心を空っぽにすることが最善である、と。
それが武蔵の最終結論でした。
「火事場の馬鹿力」は、そんなところから出るのだと。
悟りに至る「心のありよう」とは?
とはいえ、誰もが武蔵のような「空」の
境地に行けるわけではありません。
そこで彼は「水の巻」で次のように、
心のありようを述べているわけです。
「兵法の道において、心の持ちやうは
常の心に替ることなかれ。
常にも、兵法の時にも、少しもかはらずして、
心を広く直にして、きつくひっぱらず、
少しもたるまず、心のかたよらぬやうに
心をまんなかにおきて、心を静かにゆるがせて、
そのゆらぎのせつなもゆるぎやまぬやうに能能吟味すべし。」
つまり、心を均等に水のようにゆるがせて、と言っています。
が、やってみると分かりますが、
意外とすぐにどこかに偏って、
なかなか簡単にそうした状態を
維持できるものではありません。
そこで必要になるのが、
デジタル的な監視の目です。
油断なく水であり続けるためにということですね。
アナログが「過去−今−未来」
の流れに乗ったものとすると、
デジタルは「時々刻々(永遠の今)」
の連続体と見ることができます。
アナログの場合、「今」という時間は、
実績ある「過去」と、希望の「未来」に支えられ、
一人ぼっちではない「今」という意味において、
何だか暖かく安定感がありそうな印象があります。
一方、デジタルの場合は
「今」が「過去」や「未来」と分離していることで、
支えがないというか、安定感がないような、
寒々とした印象がありますね。
けれども、余計な感情に引っ張られることなく、
着実に仕事をしてくれます。
というか、その仕事量は
全くアナログの比ではありません。
瞬間の変化に対応する目の使い方
「水の巻」には「兵法の眼付と云う事」として
こんなことも書かれています。
「目の付けやうは大きに広く付くる也。
観見の二つの事、観の目つよく、見の目よわく、
遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也。」
こちらはまるで
監視カメラが自分に二つ付いているかのようです。
近くを見るカメラ(見の目)で遠くを見て、
遠くを見るカメラ(観の目)で近くと全体を見る
と言っています。
参考までに、「見の目」を通常の見方とすると、
「観の目」は周辺視野を使った見方になります。
言い方を変えますと、
ピントが合っている範囲が「見の目」で、
ピントが合っていないところが「観の目」です。
ピントが合っているところではなく、
合っていないところを認識の主体にすることで、
画像がデジタル処理されることがわかります。
つまり、映像に引っ張られることなく、
瞬間瞬間の変化に対応できるということです。
もし、ピントを合わせてしまうと、
認識がそこで一瞬止まってしまいます。
敵からすればそこが狙いどころで、
勝負の世界では文字通り命取りになりますね。
認識すら、水のようでなくてはなりません。
デジタル思考が「過去−今−未来」の幻想を祓う
最後に「多敵のくらゐの事」を取り上げましょう。
「いかにもして敵をひとへにうを
つなぎにおひなす心にしかけて、
敵のかさなると見えば、其儘間をすかさず、
強くはらひこむべし・・
折々あひ手を余多よせ、
おひこみつけて其心を得れば、
一人の敵も十二十の敵も心安き事也。
能く稽古して吟味有るべき也。」
これは、どんなに多数の敵であっても、
一列に並べる感じで、一人一人対応すれば、
一人でも何十人でも同じだと言っています。
アナログの発想だと、相手が多い段階で尻込みして、
はじめから勝負を諦めてしまいます。
つまり、「過去−今−未来」の幻想に陥り、
「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」の
パニック状態になるのです。
けれども、冷静にデジタル感覚で対応すると、
人数の問題ではないと気づきます。
結局、目の前の相手を一人一人順番に
倒すだけの話ですから。
だいたい、集団でかかってくる相手は、
個人が弱いから集団になるのであって、
一人の単位で見ると、
全く大したことがないとわかります。
そう思えるためには、
アナログではなく、デジタル思考になって
いないといけないわけですね。
デジタル的な意識の使い方
ただ、今になってわかるのは、
武蔵の戦い方は、忍者でいうと下忍のそれに
当たるんですね。
一般的にはあまり知られていませんが、
忍者には上忍、中忍、下忍の階層があり、
自分の力を使うのは主に下忍で、
中忍は下忍のコントロール、
上忍は情報戦で勝負を決めるわけです。
なので、武蔵は個人レベルでは強かったのですが、
大名とは相性が合わなかったようです。
けれども、処世術の一環として、
「五輪書」から学ぶことは多いのではないでしょうか。
アナログの時代にもデジタル的な
意識の使い方があったということで、
これは現代の私たちも
見習うべき点かもしれません。
いかがでしたか?
宮本武蔵が活躍した江戸時代の初期から
意識の本質を使う人達は
デジタル思考だったのかも知れませんね!
心のあり方、目の使い方
そして、意識の階層性。
ぜひ参考にして日常生活に活かしてみてくださいね。
今後も意識が広がるようなお話をどんどん紹介していきます。
お楽しみに。